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のぅは魚になっても泳げない

泳げない日々の記録

考えたこと

少し前、Twitterで女の子が自殺するキャスの動画が広まっていた。私はその動画を見ていないが、あれをリツイートした数万人の人達は最後まで見たのだろうか。だとしたらこわいな。自分が死ぬ瞬間が何万回も繰り返されるなんて。ただのデータだと言ってしまえばそれまでだけど。

 

これは、去年の6月に道で見つけて可愛かったから撮影したヤモリ。

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遠くから撮影しても逃げなかったので近寄ったら急に走り出し、丁度通ったバスに轢かれた。私が写真取らなければバスに轢かれなかった、私が殺してしまった、死ぬ3秒前の姿が手の中にある、死ぬ瞬間を見ていた…。

命って簡単に消えるんだなとか、(私を含めた)人間は蚊や蟻やゴキブリが死んでも何とも思わないのに、あるラインを越えた生き物が死ぬと悲しんだりショックを受けたりするから残酷だとか、死ぬ瞬間を見てもらえることや誰かに自分が死んだことを覚えておいてもらえることは実は凄く幸せな事なのではないかとか、いや逆にとても辛いことかもしれないとか、思った。このヤモリのことは忘れないようにしようと思ったけど、ヤモリが辛かったらどうしようか。うーん、忘れるまで覚えておくことにする。

 

自殺キャスの動画、見ていないと言ったけどちょっと嘘で、最初の5秒くらいは見た。そしてやっぱり見れなくて閉じた。きつかった。頭の中で「死なないで、死なないで」ってずっと思ってたし言ってた。私は無責任なので、よく「死なないで」と思ってしまう。それももう死んでしまった人に対して。

 

FXで失敗して、自殺するまでの残り日数をカウントダウンしていくブログを読んだことがある(『無への道程』というブログ)。カウントダウンし始めたところから読んでいったが、最後(死ぬ当日の記事)までは読んでいない。途中で読むのをやめてしまった。きつかった。その時も「死なないで、死なないで」って言っていた。

なんで死なないでって思ってしまうんだろう。会ったことも話したこともない人だし、本人が死にたいならそれでいいし、そもそももう死んでしまっているのに。とても無責任で、ある意味私は一番残酷な人間だと思う。死なないでと思うのはただの自己中、自己満足、エゴなのかもしれないが、そうだとしたら私はどうすればいいのか分からない。どうもしないのが正解なのかもしれない。

 

 

話は変わるけど、人間はいのちを重く見すぎているから(死を非日常として認識しているから)、生きるために働かなければ、稼がなければ、耐えなければってどんどんどんどん我慢して頑張って、そして年老いていく。なんかもっと、空が綺麗だと思ったり、知らない場所を歩いたり、いい歌やいい絵やいい文章をつくったり、思うように生きていいと思うし生きてほしい。食べものは弥生時代とかみたいにお米作ったり魚釣ったりして、食べものがなくなったら、死んで。絶滅してもいいし、絶滅しなくてもいい。もっと動物みたいに生きればいいのになと思う。

思うだけで実現不可能なことは知ってるしそれでいいんですけど、生に縛られて窮屈だなと思った。

もっと死ぬことが一般化すればいい。日常の中に死が入り込めばいい。死をタブー視しないで、さっきのヤモリとか、蚊とか、蝉みたいに、いつか死ぬことを知って、死ぬことが当たり前になれば、より生が輝けるし、逆に自殺も減るのでは。自殺が悪いこととは言わないけど。平均寿命25歳くらいが丁度いい(もっと短くてもいい)と思うので、私は弥生時代とかその辺に生まれるべきだったかもしれない。

 

弥生時代、いいよね。

やっぱ恐竜の方がいいかな。つよいし。