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のぅは魚になっても泳げない

泳げない日々の記録

初夏

夏が来るのが嫌すぎる。夏には概念のままでいて欲しかった。冬の夜中に不意に蘇る夏の空気が、記憶の中でのみ存在する夏の青さが、そういうのが好きだったんだよ。リアルの夏なんてちっとも楽しくないし暑いだけだし蝉の声なんて煩いばかりで、白すぎる昼下がりが、気持ち悪いくらい気持ちいい夜の風が、いたずらに僕の胸を締め付けて涙を絞り出そうとするからもうここには居られなくて自転車のカギだけを握りしめて玄関を飛び出し半袖半ズボンの少年みたいな格好で汚れたクロックスを履いてバカみたいに自転車を漕いで彷徨ってこんな行動に意味なんてないのは分かってるけどこうでもしないとやってられないんだよ夏なんて。

 

どうして夜空を飛ぶ飛行機の音がこんなにもよく聞こえるんですか。いつから窓を開けて寝るようになったんですか。あんなに気持ちのよかった羽毛布団が邪魔で仕方ありません。朝は明るすぎるし夜は暗すぎるし一体いつ生きればいいんでしょうね。これも全部夏だからですか。夏ってもっと輝いていませんでしたか。夏ってこんなもんでしたっけ。ちっとも輝いていませんね。もういいよそれならこっちから輝かせてやるよと、こないだ海に行ってきました。足が疲れてお腹が空いただけでした。

 

お腹が空いたのに海の近くにはなんにもお店がなかったのでお腹が空きすぎて海がきれいとかそれどころではありませんでした。道路沿いに立っていた地図を見ると、ここから2キロ先の橋の近くにラーメン屋さんがあるみたいだったのでそこに行ってみることにしました。リュックの中にはぬるくなったソルティライチとチョコ入りのマシュマロが9個だけ。こんなにお店がないと知っていたなら来る前にコンビニで5個入りの丸くて小さいクリームパンを買ってたのに…と思いながら歩きました。マシュマロって全然お腹にたまらなくてガブガブ食べてたらいつの間にか残り2個になっていました。1個食べて、でも全然お腹にたまらないからすぐに最後の1個を食べて、もう無くなった……と落ち込みながらも歩き続けたらやっと橋が見えてきました。

 

橋を渡ると、道の左側にそれはありました。思っていたよりも小さい建物で、普通の一軒家みたいな形をしていました。県内では有名なチェーン店なのですが、全体的に薄暗く、車が1台も止まっておらず、もしかして定休日かも、と不安になりましたが、駐車場の入口の看板についている黄色い回転灯がくるくる光っていたのでどうやらやってはいるみたいでした。窓には日が差し込むからかブラインドが降りていて、そのせいで薄暗いのかもしれませんが、なんだか中からじっと見られているような気がしてなかなか敷地内へ入れませんでした。人通りは全くなくて、辺りは静かで、風が夏草を揺らす音が聞こえました。【ラーメン】【ギョーザ】【つけ麺】などと書かれたのぼり旗が静かに靡(なび)いてました。黄色い回転灯が一人でくるくると回っていました。

別のところに行こうかとも思いましたが、この辺に他に飲食店なんて無さそうだったので、2分くらい様子を伺って、よし、と小さく声に出し、勇気を出して玄関の方へ歩いていきました。玄関の左右には花壇がありましたが、何も植わっていませんでした。小さい段差を上がり、手書きで【引く】と書かれた扉をおそるおそる引くと、扉に付いた鐘がカランと鳴って、奥の方からいらっしゃいませ、とおばあさんの声が聞こえました。その声で緊張が一気に解けたのを覚えています。

 

入ってすぐ正面にカウンターがあり、誰もいないと思っていたのに、男の人が一人で新聞を読みながらラーメンを食べていました。入口の右側にテーブル席、左に座敷があって、外から見ると小さかったのに中は意外と広くて、ドラえもんひみつ道具みたいだと思いました。どこに座ろうかなと店内を見渡して、突然ですがわたしは椅子よりも座敷に座って食べる方が好きで、でも一人で座敷を占領するのは迷惑なのでいつもはカウンターで食べているけど、今日はあの人以外にお客さんはいないみたいだし、とちょっとわくわくして4人用の座敷へ行きました。靴を脱いでリュックを置いて奥の窓側の座布団に正座をしてから、ふう、と一息をつきました。いつもは家族や祖父祖母と一緒に座る広い座敷に1人で座るのは、なにかいけないことをしているような、じんわりとした恥ずかしさと興奮があって、これはなんでもない日にハーゲンダッツを買ったときの感情に似ているな、と思いました。座敷の近くに厨房への入口があって、そこから背の低いおばあさんがお盆を持ってゆっくりと出てきました。お盆にはお水とメニューが乗っていて、わたしは姿勢を正してそれを受け取ると、おばあさんは「決まったらお呼びください」と、ゆっくりと言って、戻っていきました。わたしは「はい」と言って頷きましたが、ちゃんと声が出ていたか分かりませんでした。なぜか息が詰まって、一度もおばあさんの顔を見れませんでした。

 

メニューを手に取って開いた時、外からスズメの鳴き声が聞こえました。ラーメン屋さんとは思えないほど静かでした。そこで初めて、店内にBGMがかかっていないことに気が付きました。聞こえるのは男の人がラーメンを啜る音と、新聞が擦れる音、厨房の奥から小さく聞こえるスポーツ中継の声、あとは外の鳥の声だけです。静かすぎる気がしましたが、でもこのラーメン屋さんにはBGMがかかっていないのがとても似合っていると思いました。メニューを軽く見た後に、お店ののぼり旗を見た時からぼんやりと決めていた、つけ麺の並盛りを頼むことにしました。「すみません」と言っておばあさんを呼んで、「つけ麺の並盛りをひとつください」と向こうのお客さんを気にして小さめの声で言うと、おばあさんは「はい、つけ麺の並ね」とゆっくりと言って、戻っていきました。おばあさんが戻ったあとに、また顔を見ることが出来なかった、と少し悔やんで、次は絶対顔を見てありがとうございますって言おうと決めました。

 

注文を待っている間、窓から外の山と空を見たり、来た時から窓に止まっている全然動かない小さな黄色い蛾を見ていたり、お腹が空く前に撮った海の写真を見直したりしていました。厨房の方からおばあさんの声の他におじいさんの声が聞こえたので、夫婦でやっているのかなと思いました。持ってきた本を読んでいると、おばあさんがつけ麺を持ってきてくれて、顔を見るって決めていたのに、運ばれてきたつけ麺があまりに美味しそうで見とれてしまい、つけ麺を凝視しながら小声でありがとうございます…って言ったらおばあさんは「ごゆっくり」と言って戻っていっちゃって、気づいた時には後ろ姿しか見れませんでした。あーもう!最後のお会計の時には絶対顔を見てお礼を言う!と心に誓って、それにしてもこのつけ麺は本当に美味しそうで、思ったよりも多い麺の上には半分に切られた半熟のゆで卵とメンマが6,7本とチャーシューが乗っていて、つけダレはキラキラしていてあぁ早くあれをこれにつけて食べたい!!!ってもう我慢できませんでした。

 

箸が割り箸とプラスチックの再利用できるやつがあって、ちょっと迷ってプラスチックの方にして、いただきます、と言ってさっそく食べると、もう麺はもちもちで歯ごたえが良く、つけダレは甘くて辛くて奥が深い味をしていて麺とタレがよく絡んで堪らない!一生これを食べ続けたいと思いながら噛んでいました。ネギが味にアクセントをつけていて、メンマもシャキシャキで味が染みてて卵もトロットロで黄身と麺のコラボレーションが病みつきになります。チャーシューは最後に取っておいたのですがこれが大正解でしつこくないけれど香ばしい肉の旨みが口から溢れてこれと麺とつけダレだけで生きていける気がしました。最大限にお腹が空いていたせいかもしれませんが、今まで食べたつけ麺の中では絶対に一番美味しかったです。

この味を忘れまいと味わって心に刻みながら食べ、食べたあとも余韻でしばらく目を瞑っていました。味の余韻に浸りきったあとに、なんだかごちそうさまをするのが寂しくて、ぼーっと店内を見回していると、いつの間にか男の人が帰っていたことと、厨房の出入口の横に小さい本棚があって、その上に今日行った海の写真集が立ててあるのに気が付きました。見たい、という気持ちが抑えられず、おばあさんに「あの本を見てもいいですか」と聞こうと思ったけど、見てもいいから置いてあるんだろうしなんか聞くのも恥ずかしくて、席を立って靴を履いてトイレで手を洗ってから、勝手に見ることにしました。写真集には、春夏秋冬の順に海の風景やその周りの景色が収められていて、とても綺麗だったけれど勝手に見ているという罪悪感が頭をチラついて、パラパラと見ただけで元に戻してしまいました。あの時勇気を出して一言でいいから声をかけておけばもっと気持ち良くじっくりと見れたのに、と今でも思います。その後は、食べ終わったのにこれ以上いるのも変な気がして、もしかしたらおばあさんも早く食器を片付けたいと思っているかもしれないと考えて、お店を出ることにしました。

 

リュックを背負って財布を持って立ち上がると、それに気づいたおばあさんが先にレジのところへ行ってくれました。今度こそ目を見てお礼を言うと決めていたのに、いざおばあさんを前にすると自然と下を向いてしまい、全然顔を見れません。「720円です」という柔らかいおばあさんの声が耳に染みるのを感じながら、財布から1020円を取り出して渡すと、おばあさんはシワだらけの小さな手で受け取って、暗算で300円をわたしに渡しながら、「ありがとうございました」と、ゆっくり言いました。あぁこのままでは顔も見れないままお礼も言えないまま二度と会えなくなってしまう、そんな恐怖が恐ろしいスピードで湧き上がり、自分のしょうもない羞恥心に包丁を突き立ててやりたくなって、そのまま勢いに任せて全てを懸けて「すごく美味しかったです!ありがとうございました!」と言ったのだけど、やっぱり自分はどうしようもなくて、実際に口から出た言葉は「あの、美味しかったです…」だけだったし、しかもちょうどそれにかぶせておばあさんが「またお越しくださいませ」って言ってお辞儀をしていて、もう何もかも上手くいっていませんでした。

多分おばあさんは何も聞こえてないだろうな、声もきっと小さかったし、なんで自分は感謝の気持ちすら伝えられないんだろう、そう思ってもう帰ろうとしたとき、おばあさんが顔を上げて、「ありがとう」と、ゆっくりと、しっとりとした声で言いました。初めて見るおばあさんの顔は、とても優しい顔でした。真っ黒な瞳に、蛍光灯の光が反射して、小さなラーメン屋さんの中でキラキラと光っていました。真っ黒な、宝石のような目でした。わたしはそれをずっと見つめていました。途方もないほど長い時間を生き続けた人だけが持つ何かをその目は持っていて、それを惜しみなくわたしに見せつけてくれていました。今にも溢れ出しそうな真っ黒な瞳を見つめるのにもう耐えられなくなって、わたしは頭を下げてありがとうございましたと言って、お店を出ました。鐘が小さくカランと鳴って、扉が閉まりました。

 

川沿いにある無人の小さい駅に向かいながら、おばあさんのあの目のことばかり考えていました。なんだか泣き出しそうな目だったな、と思うのは良くないことだろうか、と思っていました。厨房から声だけ聞こえたおじいさんには会えなかったな、というのと、本当にわたしの声は聞こえていたのだろうか、ということも考えていました。

歩きながら、あのラーメン屋さんとその夫婦がずっと続きますようにといった内容の歌を即興で歌っていると、涙が溢れて止まりませんでした。最初に右目から零れた時は嬉し泣きだっけ、悲し泣きだっけ、と頭の片隅で思いながら、泣きながら歌い続けました。

今も、これからも、あのお店と、そこで暮らすおじいさんとおばあさんがずっと続いていますように。またいつか、夏が嫌になった時にでも来ますので、その時はよろしくね。

 

 

おじいさんにも会いたいし、写真集もまたゆっくり見たいので。