10月10日 わからない
のぅです、こんにちは。
三日間、更新できなくてごめんなさい。
その言い訳をします。
のぅの恋愛遍歴Part.1《Rくん一筋になるまで》を書いたのが6日(金)の夜で、7日(土)はいとこが家に泊まりに来たので書く暇がありませんでした。
で、8日(日)の夜に、のぅの恋愛遍歴Part.2《小学生時代のRくんとの思い出》を書いてたんですけど。
私、普通の記事書くときは1時間~時間半、長めの記事の時は2時間くらいかかるんですよ。
だから日曜は11時半から2時まで書いてたんですけど、あと少しで書き終わる!って時にお母さんが起きてきて、「いつまでパソコンしてるの、もう寝なさい」って言われて。
まだあと15分はかかりそうだったので下書き保存して寝ました。明日の朝から残りを書こう、と思って。
で、月曜(祝)起きたのが10時半。
「明日学校だ...この前行くって言ったからいかなきゃ...」と思って憂鬱になり。
月曜はずっとだらだらすごしてて、結局更新せず。
そして10日(火)、この時間帯(14時ごろ)に書いてるってことは。
はい、やっぱ行けませんでした。
下書き保存してたのぅの恋愛遍歴Part.2を書こうとするも、そういう気分じゃないので書けませんでした。
保存はしてるし、Part.3の内容も考えてメモしてるので、テンションいい感じのときに書きます。
はぁ。
行こうと思ったんだけどなぁ。
体がすくんで、朝、ベットから起き上がれないんです。
昨日は眠れなくて、睡眠時間3時間だったのもあるかもです。
家が学校から遠いから、朝は5時に起きないと間に合わないんです。
でも、今まで不規則な睡眠だったせいでやっぱり起きれなくて。
あー甘えですよね。やっぱり。
甘えじゃない不登校の方もいらっしゃると思いますが、私の場合は甘えですね。
甘えてばっかで弱い人間だ。
弱かったらだめなんですかね?
そうやって開き直るのも弱い証拠だけど。
てか、先生や親やほかの人は、「目標とかやりたいことがあれば生きる気力が湧いてくるよ」っていうんですが、
私はそんな、無理して目標やしたいことを見つけてまで生きなくてもいい。
いや、ほんとに何のために生きてるの?
ずっと思ってるし、いろんな人に聞くけど、ちゃんとした答えが返ってきたことがない。
家族をつくるため?好きな人と一緒に過ごすため?やりたいことをするため?
どうせ死ぬのに。
それなら、死ぬときに「いい人生だった」って思って死ねるようにするため?
それなら少し納得できる。
でも、そのためにこんなにきつい思いするなら生きたくない。
マラソンだってそうじゃん。
走るのはとてもきついけど、終わったらすごく気持ちいいし感動するし、走ってよかったって思う。
だから、マラソンする意味は、終わった時に「走ってよかった、いいマラソンだった」って思うためっていう人がいても納得できる。
でも、それならなんでマラソンしない人がいるの?したくない人がいるの?途中でやめる人がいるの?
それは、走るのがきついからでしょ。
そんなにきついなら別に走らなくていいしって思うからだと思う。
だから私も、生きるのがきついなら別に生きなくてもいいんじゃないかって思う。
それはいけないことなのかな。
生きる意味がしりたい。
「せっかく生まれてきたんだから死ぬのはもったいなくない?どうせなら綺麗な景色見たり、大切な人と過ごしたり、大きいことやり遂げたりしてから死のうよ」
っていう人もいるかもだけど。
たとえば隣の家の人から、知らないゲームのカセットもらったとして、「せっかくもらったんだから捨てるのはもったいないなくない?どうせならクリアしてから捨てるなり売るなりしよう」って思ってやってみる。
でも、そのゲームはもっのすごくつまんなくて、無駄に難易度が高いうえに、全然面白くない理不尽な辛いゲームだったとしたら。
私なら迷わず売る。売るのがめんどかったら捨てる。
ゲーマーさんとかは、やるかもね。
もしかしたら、めっちゃつまんないのは最初のほうだけで、プレイしていくとだんだん面白くなる素晴らしいゲームかもしれない。でもそれは絶対じゃないし、そんなあるかも分かんないハッピーエンドのために辛いゲームをする気には、私はなれない。
捨てても、そのあとほかのゲームがもらえる場合(生まれ変わりがある場合)は、ほとんどの人がその辛いゲームをすぐ捨てて、次のゲームをすると思う。多分。
最初にもらったゲーム以外はできない場合(生まれ変わりがない場合)は、捨てずにやる人が多いかなぁ。わたしも捨てずにやる派。どうせだから。でもあまりにも辛かったら捨てるかも。
ほかのゲームができるかできないかわからない場合(生まれ変わりがあるかどうかわからない場合)は、人それぞれだと思うけど私は.....
やっぱり、その辛さによるよね。
我慢できる辛さだったらやるし、無理なほど辛かったら捨てる。
しょせんそんなもんだよね。
本人が死ぬほどきついときは死ぬほどきつい。そうでもないときはそうでもない。
だから、「えっ、たったそれくらいで辛いの?」「私のほうがきついし」「それくらい平気でしょ」「みんな頑張ってるんだから、頑張れよ」「ただの甘え」「そこまで辛くなくない?」
みたいに、自分の定規で相手のきつさや辛さを測らないでほしい。
あなたにとっては「たったそれくらい...」って思うことでも、その人にとってはものすごく苦しいことかもしれない。
でも、あの人にとってこれは辛い、あの人にとってこれは平気っていうのをかんっぜんに理解するのは相当仲良くない限り無理なので、せめて『相手の辛さを自分の定規で測らない』人が増えたらもっと皆が過ごしやすくなるかなぁ、と。
なんかだいぶ話が逸れちゃった。
なんで生きるのかっていう話でしたけど、私はいまのところ死ぬつもりはないです。
なぜかというと、家族が私に生きていて欲しいって思ってるからです。
生きる意味は「あなたに生きていて欲しい」と思ってくれる人がいるから、かもしれませんね。
(多分この前の記事でもそういう結論に達したような笑)
だから、もし家族からも、誰からも愛されてなかったとしたなら普通に死にますよね。私なら。
愛されてても、本人が死ぬほど辛かったら死ぬのもしょうがないっていうか、私がそれほどきつかったら死ぬかな...。
・生きる意味『生きていて欲しい、と思ってくれるひとがいるから』
・死んだらダメな理由『死んだら悲しむ人がいるから』
ということで、一応結論はでましたが、まだあんまり納得はできてないです。
愛してくれる人、死んだら悲しむ人がいなかったら死んでもいいのかってなりますからね。
いいのかわるいのか、私にはわかりません。
世間では「生きるっていうのは当たり前すぎて理由を考えるまでもない」とか、「自殺は絶対にダメです!」みたいに言われてますが、なんででしょう.....。
私はわからないので、わかる方や「のぅさんの考えはちょっと違うんじゃない?」て思う方はコメントしてくださると嬉しいし、私みたいに悩んでる人も助かると思うのでぜひお願いします。
例えばっかでいみわからんかったかもしれません。すみません。
あと、のぅの恋愛遍歴Part.2,3は学校関係が落ち着いてから書こうと思ってます。
では、またねノシ